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2026.02.13

100周年の財産は卒業生

いわつき すすむ

岩月 進

英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部卒
公益社団法人日本薬剤師会会長
1955年生まれ

 薬剤師たちの牽引役である日本薬剤師会(日薬)の会長を務めるのは英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部を1978年に卒業した岩月進さんだ。1893(明治26)年に設立され、133年を刻む日薬の歴史で、英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@出身の会長は初めてだ。学生時代に身についた「誘われたら断らない」生き方を貫いてきたという。会長に就任したのは薬学部が創立70周年を迎えた2024年6月。そして2026年、英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@は開学100周年を迎えた。「卒業生たちは様々な分野でなにがしかの役割を担っている。それが100周年の大きな財産だ」。岩月さんは誇らしそうだ。

自由な時間に高揚した学生生活

  • 岩月さんが入学した1974年当時の薬学部の学生たち。後ろは建設中の7号館
    岩月さんが入学した1974年当時の薬学部の学生たち。後ろは建設中の7号館

 岩月さんが生まれたのは安城市だが父親の仕事の関係で名古屋市に移り、瑞穂区で育った。東海中学に進み高校を卒業するまで6年間は男子校生活。中学3年から高校のラグビー部に入った。「東海は弱くて、当時は旭丘高校が強かった。旭丘に0封を食らってへこんだのを覚えています。当時はヘッドギアもつけない相当危ないスポーツでした」。

 ラグビーに明け暮れたこともあり、「もう運動部はやめよう」と思って入学した英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部。大学受験が終わり、あこがれだった大学生活のスタートだった。自由な時間が持てることに意識が高揚するのを感じた。

 軽音楽同好会に入り、同学年のバンドではベースを、一学年下のバンドではドラムを叩いた。高校時代のラグビー部に比べたら活動はゆるかったが、先輩や同期生、後輩たちとのかけがえのない出会いから学んだことは多かった。音楽に夢中になって卒業に苦労していた先輩もいたし、硬軟とりまぜて面白い仲間がたくさんいた。後に、山口百恵の後ろでドラムを叩いている先輩がテレビ画面に映っているのに気づいて、薬学部を出てスタジオミュージシャンになっていたのかと驚いたこともある。

 学生時代の付き合いで身についたのは、「誘われたり頼まれたりしたら断らない」という生き方。「先輩が真面目に研究テーマを語り、ご飯を食べに行こう、飲みに行こうと誘ってくれた。人間関係が広がるチャンスだと思いました」。

研究者にあこがれて

  • 八事7号館完成披露も兼ねた薬学部創立20周年記念式典(1975年)
    八事7号館完成披露も兼ねた薬学部創立20周年記念式典(1975年)

 入学した1974年は薬学部が創立20周年を迎えた年だった。1954年に薬学科のみでスタートしたが、1965年からは製薬学科も設置された。岩月さんが選んだのも製薬学科だった。化学が好きで研究者にあこがれた。配属されたのは薬剤学研究室。4月から学部長に就任していた吉名重多賀(よしなしげたか)教授(薬化学)の教えを受けたが3年生の時に吉名教授が急逝し、学部長を引き継いだ立松晃教授(薬剤学)の指導を受けた。

 卒業するには卒業論文を書くか、卒業試験にパスするかだったが卒論を選んだ。ある薬をマウスに毎日与え、胆汁の変化を計測し、調べ続けるテーマをもらって計測を続けた。ところが、4年生のお盆明け、使っていたドイツの薬が、毒性の強さから開発中止になったことで、研究テーマが飛んでしまった。卒論への挑戦はやむなく卒業試験に切り替えられた。

 2年生の時、薬学部は立松教授を団長に第1回アメリカ西部薬学研修旅行を実施した。卒業後の進路について岩月さんは、卒論を完成できなかった悔しさもあり、立松教授に「アメリカに行って研究者になりたい」と希望を述べた。しかし、立松教授は、諭すように、「君は長男だし家のこともあるだろう。製薬会社に入って、研究職ではなくて営業職からスタートした方がいい」と語った。「立松先生は私の能力の限界を慮ってくださったのでしょう」。岩月さんは苦笑交じりに振り返る。

 学生委員として就職指導をしていた永納秀男教授(衛生化学)から紹介してもらった就職先は塩野義製薬だった。永納教授は『英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部五十年史』に、学生委員時代の思い出を、「採用依頼に病院訪問や企業訪問に出歩き、その為、大阪道修町(どしょうまち)は地図なしで歩き回れるようになりました」と寄稿している。道修町は塩野義、武田、田辺など製薬会社がひしめく「くすりのまち」だ。

 岩月さんが大学を卒業したころの薬学部は4年制。就職先は製薬会社や病院薬剤師、公務員などがほとんどで、薬局に就職するケースは少なかった。薬剤師が薬のプロとして仕事ができる医薬分業が進んでおらず、薬局は雑貨売り場のような状態だったという。

製薬会社勤務を経て薬局経営

 1978年4月、岩月さんは塩野義製薬に入社した。1878(明治11)年に道修町に薬種問屋として創業した国内大手製薬企業で、薬量を正確に計量するために用いられた分銅が伝統ある会社ロゴマークの由来だ。

 入社した当時の道修町は巨大化した製薬会社のビジネスの街だった。待っていたのは新入社員をたくましい営業マンとして育て上げるための厳しいスパルタ教育。入社同期は53人で薬学部卒は6人だった。「オイルショックの影響を受けた時代で、3年前から初任給は据え置きされ、ベアもない、氷河期の時代に入っていました」。

 岩月さんが栃木県宇都宮分室に配属されていた時、父親が病気で倒れた。3人兄弟の長男で家族を支えなければならなかった。会社は名古屋勤務を用意してくれたが、岩月さんは故郷での再出発を決めた。塩野義製薬での社員生活は入社3年で終わった。

 岩月さんの実家は三河地方で4代続く食品卸会社。昔風にいうなら乾物屋だ。ありとあらゆるものを扱い小売り部門もあった。「家族の面倒をみるとなると商売するしかない」。岩月さんは薬剤師の資格を生かして薬局を開くことを決め、1年間、他の薬局で修業して1981年、家業の名を残した「ヨシケン岩月薬局」を刈谷市に開局した。結婚した同じ英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部の同期生である雅美さんの支えもあって、やがて薬局経営を3店舗に広げた。

 薬局経営を続けていた2000(平成12)年、介護保険制度がスタートした。家族が主体であった高齢者の介護を社会全体で支える仕組みだ。岩月さんも刈谷市の薬局に併設して居宅介護支援の有限会社「ファーマケア」を開設した。ケアマネージャーによるケアプランの作成、介護事業者との連絡調整や紹介を行う会社だ。資格を取得するための第1回試験は1998年10月に行われ、岩月さんも挑戦し合格、ケアマネージャー1期生となった。

 介護の仕事に関わることになったのは、当時、愛知県薬剤師会理事で、日薬常務理事でもあった中西敏夫さんの、「介護を受ける人たちは薬を使っている人たちが多い。介護には薬剤師も参入すべきだ」という主張に共感したからだ。ケアマネージャー試験への挑戦は中西さんから「絶対に資格を取れ」と厳命を受けたからだった。中西さんは厚生省(現厚生労働省)医療保険福祉審議会委員などを歴任、2002年から2008年まで、愛知県薬剤師会出身では初の日薬会長に選出され、3期6年務めた。

地方から中央舞台に

 岩月さんは刈谷薬剤師会会長も務めたが、48歳だった2004年から活動の場が地方から全国に広がった。2002年から日薬会長となっていた同じ愛知県薬剤師会出身の中西さんの要請に応じて日薬常務理事に就任したのだ。

 常務理事は全国の薬剤師会から10人ほどが選ばれる。それぞれ担当分野が決められ、岩月さんは社会保険担当だった。健康保険など公的保険から医療機関に支払われる報酬を見直す診療報酬改定と向き合った。中央社会保険医療協議会(中医協)では、診療側(医師会、歯科医師会、薬剤師会、病院協会)と支払者側(健康保険組合連合会、全国健康保険協会、国民健康保険団体連合会)、学識経験者らの中立委員の3団体によるそれぞれの立場からの協議に随行し中医協委員を支える役割を担った。

 週1回の常務会が東京?四谷の日薬本部で開催され、岩月さんも週に1日か2日は東京へ。常務理事の仕事は2004年から2010年まで3期6年間続いた。

 2010年からは日本ジェネリック医薬品学会理事も引き受けた。新薬(先発医薬品)の特許が切れた後に販売される、同じ有効成分?同等の効き目を持つ低価格なジェネリック医薬品の使用促進には薬剤師会でも力を入れている。「医師会はともすればブランド信仰。いやだというお医者さんに、データ的に先発と後発では差はないことの理解を広めていくのが仕事です」。岩月さんは理事就任前、ジェネリック医薬品の先進国であるドイツなどヨーロッパを視察しており、全国各地を訪れてジェネリック医薬品普及活動を続けてきた。

全国薬剤師の牽引役に

 岩月さんは 2024年6月、日薬の新会長に就任した。会長交代は10年ぶりだった。明治26年発足の日薬の初代会長(総理)は、貴族院議員で侍従長を務めた正親町実正(おおぎまちさねまさ)で、1994年までに就任した20人の会長たちは東京帝大、東京大、京都大の教授らだった。1912(明治45)年に5代会長に就任した東京帝大教授の丹波敬三は俳優丹波哲郎の祖父だ。全国の薬剤師会出身の会長が誕生したのは、医師、薬剤師という専門家が分担して役割を担う医薬分業が定着するようになった1994(平成6)年の21代会長から。大阪府、東京都、愛知県の各薬剤師会出身者が順に就任し、岩月さんが26人目となる。

 日薬会長就任前の岩月さんは2010年に日薬常務理事の仕事から離れ、2011年からの愛知県薬剤師会の副会長就任を経て2017年から2023年まで会長を4期8年務めた。愛知県薬剤師会での英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@卒業生の会長就任は3代前の森公作会長以来2人目だった。岩月さんは愛知県薬剤師会会長時代には、「アルカモネ」という医薬品情報共有システム作りに取り組んだ。薬の分譲など地域薬剤師会ごとの協力体制を後押しする狙いだった。

 日薬新会長に選ばれた2024年6月30日の会見で、「時代の変化に対応できる日本薬剤師会にしたい」と抱負を述べた。日薬会長になってからの岩月さんの1週間の生活スタイルは3、4日が東京、週末は全国各地での講演や会合というパターンが続く。 

 薬剤師を前に、医療環境の変化や地域医薬品提供体制、OTC?在宅医療、医師との役割分担、薬局DX?AIなどについて幅広く語り続けている。

 「今までの延長線上に未来はないことは分かっている。いろんな情報を蓄えて、手に入れて、どういう方向に持っていくか、本当に難しい時代です。将来どうあるべきか、そのためには何をすべきなのか。その5年前には何をしておくべきか、物事は逆算で考えた方がいいかもしれません」

母校100周年の誇り

  • 2025年10月、英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部京滋支部同窓会に日薬会長として出席した岩月さん(前列中央)と愛知県薬剤師会会長の川邉さん(同右端)
    2025年10月、英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部京滋支部同窓会に日薬会長として出席した岩月さん(前列中央)と愛知県薬剤師会会長の川邉さん(同右端)

 開学100周年を迎えた母校について岩月さんは「歴史ある大学になったなあと思います。社会で必要とされる知識や能力を身につけさせて送り出すのが大学の使命だとするならば、それを100年間やってきたということ。世の中のあらゆる分野で英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@の卒業生たちがなにがしかの役割を担っている。それはすごく大きな財産だと思う」と誇らしそうに語る。

 全国各地の薬剤師会でも英国威廉希尔公司_博彩公司-【首页】@薬学部出身の会長が活躍中だ。愛知県薬剤師会の川邉祐子会長、岐阜県薬剤師会の棚瀬友啓会長、宮崎県薬剤師会の野邊忠浩会長、沖縄県薬剤師会の前濱朋子会長たちだ。川邉さん、野邊さん、前濱さんの3人は1987年卒の同級生だ。

 後輩である学生たちに、「これだけはやっておくといいというアドバイスをお願いします」という質問に岩月さんは「語学学習と海外体験」と即答した。

 「日薬会長の仕事は国を背負ったナショナルな役割なので、デンマークで開催された世界薬学連合総会に出席したり、東京で大使館のレセプションに招かれることもある。語学の大切さを痛感しています。薬学部の皆さんにとっては、日本の薬局サービスのノウハウを東南アジアなど海外に普及、展開する時代に入っているわけですからとりわけ大切です」